ga('set', 'dimension1', dimensionValue);
2017年10月6日
【コラム】嘉納治五郎と五輪

五輪シリーズ第2弾の今回は、
嘉納治五郎と五輪について書いていこうと思います。

「嘉納治五郎?誰?」となる方も多いかもしれませんが、
日本の五輪は嘉納治五郎なしには語ることができません。
嘉納治五郎と五輪について書きながら、
「幻の東京五輪」について紹介したいと思います。

 

 

嘉納治五郎とは?

嘉納治五郎は、1860年に現在の神戸市に生まれた、柔道家です。
16歳で柔術を学び始めた嘉納は、
理論を確立し柔道を考案、その後講道館柔道を設立します。
現代まで続く「柔道」を作った人物こそ嘉納治五郎なのです。

また、柔道家と同時に嘉納は教育者でもありました。
この柔道を青少年の教育に使用すべく、
東京高等師範学校(のちの筑波大学)で校長を務め、
学生たちに強い体を作るための体育思想を推進しました。

 

嘉納治五郎と五輪

この段落は、JOCHP内の五輪・ムーブメントと
嘉納治五郎を参考に書かせていただきます。

五輪の理念に共感した嘉納は、
1909年にアジア人初の国際五輪委員会の委員となります。
そこから、五輪・ムーブメントに積極的に関わっていきました。

五輪に選手を派遣するために、
日本体育協会の前身となる大日本体育協会を創設し、
選手の予選会を実施しました。

そこで2名を選手として選び、
1912年、ストックホルム五輪において初めて日本人選手を参加させました。
初めて参加した2名は、短距離の三島弥彦と、マラソンの金栗四三でした。

それ以降、嘉納はほとんどすべてのIOC会議や五輪に出席しました。
五輪終了後には、各国のIOC委員を訪問し、
その国の体育やスポーツ事情を見聞し、親交を深めました。

 

幻の東京五輪

2020年に東京五輪が開催されるのは皆さんご存知だと思います。
その前、1964年に東京五輪が開催されたこともご存じでしょう。

では、1940年に東京五輪が開催される予定だったことは
皆さんご存知でしょうか?

実は、嘉納治五郎が中心となって、
1940年の東京五輪の招致を行っていました。

1936年にベルリンで行われたIOC会議でヘルシンキとの
一騎打ちを制し、初めて欧米を飛び出して、
アジア初の五輪が東京で開催されることが決定しました。

しかし、その2年後の1938年、
カイロで行われたIOC会議から日本に帰る船中で
嘉納治五郎は肺炎のため亡くなります。

その2か月後、日中戦争の長期化により
東京五輪開催を返上、幻の五輪となってしまいました。

 

 

【関連コラムはこちら】

近代五輪

近代五輪の歴史①~政治利用された五輪~

五輪の歴史②~社会問題編~

五輪とスポンサー

 

【スポーツのお仕事をお探しの方、お気軽にご相談ください!】
ご相談事項入力フォーム
https://lp.inthezone.co.jp/#mail_form

お電話によるお問い合わせ
℡ 03-5614-0260

 

・引用参考文献
筑波大学:嘉納治五郎の経歴と功績http://www.tsukuba.ac.jp/about/kano/keireki.html
JOC:オリンピック・ムーブメントと嘉納治五郎http://www.joc.or.jp/olympism/kano/